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水俣病の科 増補版
西村肇、岡本達明

Closing    あとがき

増補版へのあとがき

岡本達明記

 二〇〇一年六月に本書の第一刷が上梓されてから五年経ちました。その問に五刷を重ね、このたび増補版が刊行されることになりました。著者として大変うれしいことです。その新しい内容は二点あります。最も重要なのは、昭和電工鹿瀬工場でのメチル水銀生成を日本で初めて科学的に証明した西村の補論2です。熊本と新潟で二度引き起こされた水俣病の大惨事は、どちらもアセチレン法アセトアルデヒドプロセスが原因という点では、二つにして一つの事件です。西村の補論2によって、『水俣病の科学』というタイトルに真にふさわしい書になったと言えるでしょう。また本論部分では、一九五九年一〇月末以降のチッソのアセトアルデヒド廃水処理について、主に注を活用して若干の加筆を行ないました。これは、旧版でこの部分の記述を最重要ポイントに絞ったため、「もう少し詳しく書いてほしい」という意見が寄せられたのに応えたものです。
 著者の一人として私は、本書の刊行に対するこの五年間のチッソの反応について、一言ご報告しておきたいと思います。いかなる形であれ、いかなる内容であれ、チッソは本書に対して一言も発せず、無視を決め込みました。このチッソの反応は、西村の補論2に対し昭和電工がコメントを一切拒否したことと軌を一にしています。地球の環境破壌は、あらゆる生命の存在をおびやかす待ったなしの段階に至っています。企業や行政、そして大量消費杜会の環境破壊に対して、一段と厳しい杜会的規制が必要なことは明らかです。まして、自らが引き起こした歴史的な大公害に対して、遂に最後まで真相の究明、公表すら行なわないような反杜会的企業はその存続を許さないという杜会規範、それも世界的規範を確立すべきだと思います。

 

西村肇記

 水俣以外で水俣病被害が起こったのは新潟です。新潟では阿賀野川下流を中心に約七〇〇人の認定患者が出ました。水俣の約三分の一です。この「新潟水俣病の原因は、阿賀野川の上流にある昭和電工鹿瀬工場の廃液である」ことが、一九七一年、わが国最初の公害民事裁判で判決され、杜会常識として通用しています。これは「水俣病の原因がチッソ水俣工場の廃液である」のと言葉は同じですが、言葉の持つ重みと確かさでは大きな違いがあります。
水俣の場合はチッソの原因責任が、刑事裁判でも民事裁判でも確定されました。これに対し、新潟では、因果関係の立証は不可能として刑事訴追は行なわれませんでした。また第二次民事裁判の控訴審では、因果関係を争わないことを条件に昭和電工が患者に謝罪して補償する調停案に合意しましたので、因果関係の確定は行なわれませんでした。
 裁判では、昭和電工は鹿瀬工場の廃液が原因であるとする患者側の主張を全面的に拒否しましたが、最も強く固執したのは、鹿瀬工場のアセトアルデヒドプロセスはチツソ水俣工場のアセトアルデヒドプロセスとは違っていて、一切メチル水銀を生成しなかったという主張です。でも、この主張を直接に否定したり反証することは不可能です。なぜなら昭和電工は、一九六五年、新潟で水俣病が発見された正式発表後ただちに製造プラントを解体撤去し、同時に全資料を焼却してしまったからです。
 昭和電工自身もこの主張を直接に証明することはできません。そこで使われるのは、「鹿瀬工場のアセトアルデヒドプラントでは、メチル水銀の生成と分解は釣り合っていて外部への流出はなかったはず」とする学術論文です。これは、昭和電工が問題のプラントを消滅させた後、模型プラントをつくって、実プラントと同じ条件で運転した実験結果の報告です。この模型プラントからは系外へのメチル水銀の流出はなかったことが明確な実験データで示されています。
 この論文は一九七一年、『工業化学雑誌』という専門誌に発表されましたが、アセトアルデヒドプラントにおけるメチル水銀の生成、流出を実験的に扱った唯一の研究論文です。それ以後はメチル水銀についての研究が厳しく禁止され、全く論文が出ていないからです。したがって、昭電鹿瀬工場からメチル水銀が放出されたということを科学的に主張するには、この論文を厳密に検討し、著者も認める形でその誤りを指摘せねばなりません。この論文の結論に疑問を持っていた筆者は、どこかに著者の誤りを発見しようとしましたが、すべて失敗しました。審査を経て発表された専門論文は、字面の上では矛盾なく書かれていますから、掲載されているデータと結論だけから誤まりを指摘することはまず不可能なのです。
 「昭電論文」は、結論的にいえば誤った結論をあたかも科学的に立証したかのように見せるべく意図的に書かれた論文です。このようなごまかしのために通常使われる手段は、(1)データの改ざん、(2)必要な記述の抹消、(3)人を誤解に導く意図的あいまい表現です。したがって、このように書かれた論文から一つの真相を発見するには、これらあらゆるごまかしの可能性を一つずつ想定して、それらを直して結論をつくってみる必要があります。直すには相当な合理的根拠が必要です。
「昭電論文」で一番困ったのは、実験系のフローシートと反応器図面が欠如していることでした。具体的な疑問、検討は不可能でした。データの改ざんはないと見ました。数人の協同論文では不可能なことだからです。そのかわりにずっと疑問視したのは、硫酸メチル水銀を還流するという実験方法の妥当性でした。これがメチル水銀の系外への排出を抑制することになるという趣旨の論考を書いたこともあります。(「技術と人間」1997年12月号)。しかしこれは間違いでした。
 その後はこの反応器の中でメチル水銀が生成していたか否か、どちらにも確信が持てない時期が続きました。これは、不審に思われる読者がいるでしょう。「昭電論文」にあるメチル水銀濃度の時間変化の図(本書363頁の図4)を見たら、いずれのケースでもメチル水銀は生成していて、分解していないことは明らかだからです。なぜ私が初めにそう考えなかったかというと、初期値がわからなかったからです。昭電論文の原図には初期値が抹消してある上、初期添加量mgを初期濃度mg/lと誤解させるような記述があります。この誤解に基づくと初期値は最終到達濃度にほぼ等しくなり、生成はなかったことになります。むしろ不思議だったのは、メチル水銀濃度が初期値より下がることで、これは、実験法あるいは測定法の欠陥に基づくものではないかと想像し、そればかりを検討していたのでした。
 転機は、本書の初版が毎日出版文化賞を受けた日に来ました。同時に受賞した柏書房の方から、新潟水俣病裁判の全記録をマイクロフィルムで出版する予定と聞いたのです。そこで出版前でしたが昭和電工側証人の証言速記録を全部購入して読み通しました。論文以外の実験結果は全く見当たりませんでしたが、論文にはなかった実験用反応器の図面が一つ見つかりました。
 この図面から反応器容積を出すと1.2 lとなりました。これで初めて正しい初期濃度がわかりました。初期値mgを初期濃度と誤解したことは、反応器容積を1.0 lと誤解したことに相当しますから、正しい初期濃度は誤解していた初期濃度より20 %低いことになり、どの場合にも最終濃度より低くなりました。つまり、どの条件でもメチル水銀が生成していることがわかりました。これは「昭電論文」の主張の核心を一発で突き崩す結果でした。抹消とあいまい表現で陥っていた迷路からこのようにして抜け出すことができたのです。あとは論文に記した通りの論理で進むことができました。
 その結果を、「昭和電工鹿瀬工場は大量のメチル水銀を生成していたーー昭和電工の反論データを使っての逆証明」と題して『現代化学』という専門誌に発表しました。昭電鹿瀬工場はチッソ水俣工場とほぼ同量のメチル水銀を生成していたはずという内容です。2003 年 3 月に発表し、すでに三年間経過していますが、昭和電工からは何の反論もありませんでした。それで増補版では、この論文の主要部を補論2として巻末に収めました。私たちの『水俣病の科学』が真の科学であるならば、水俣で発見された数々のことは、地域を越えて新潟でも確認されなければなりません。果たしてそうなるかどうかは私たちの研究に対する最大の試練でした。補論2は、私たちの研究がそれに耐えたことの報告です。


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