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将来予測
20年前に行った 中国の将来発展予測
Episode 文化大革命直後の北京と 私の「毛沢東批判」講議
 その後起こった「文化大革命」については、私は、直接的な個人的体験はありません。中国が完全に閉じた国になり、私のようなMao Zedong 批判者の入国を、絶対に認めなかったからです。ところが1978年、Mao の死後、さきに述べたよう、私は講義のために中国に呼ばれましたので、この機会を利用して、「文化革命」の爪あとを注意深く見出すと同時に、まだ記憶の生々しい知識人たちに、その経験と感想を語ってもらうと思いました。Mao Zedong の「わな」を経験した人々の口は固かったのですが、2週間の講義を通じて私が信頼されたこともあり、双方がロシヤ語を使うことで、政府のSpyである通訳を介さずに話ができたこともあり、それまで誰にも出来なかった「文化大革命」の間接体験をすることができました。この特異な体験は、帰国後すぐ「中央公論」に10頁の論文でくわしく発表しました。私の「文化大革命」についての経験Episodeは, この間接体験にほかなりませんので、以下に、それをそのまま引用します。

北京の第一印象
 北京の第一の印象は、田舎という感じである。解放以前にくらべても田舎になったという感じだった。そう感じる第一の原困は、みんなの服装が簡単で画一的なことである。みんな青い木綿ズポンに白い半袖シャツで、シャツを外に出して着ていた。男も女も、学生も農民も、勤務中のスチュワーデスも、北京飯店のウェイターも、工場労働者も区別はない。シャツをズポンにつっ込んでいる人は一人も見なかった。もちろんネクタイをしている人はいない。モスクワ留学した人に聞いたら、モスクワではネクタイをしていたけれど、中国ではしたことはないという。「気分を変えるためにたまにはしたらどうだ」と言ったら、「そんなことしたら、行き交う人がみんな見るから大変だ」ということだった。要するに農村なのである。
  北京をじっと見ていると、都会をつぶして中国全土を農村にしようとした毛沢東の意思を感じることができる。彼はさらに進めて中国全土を延安にしようと思ったのではないだろうか。人は、都市に住むのが幸福なのか、農村に住むのが幸福なのかはわからない。しかし、この農村化政策によって文化が大きな打撃を受けたことは碓かである。知識層も。

北京の本屋
 北京の王府井にある新刊本展をたずねてみた。広さはせいぜい四十平万メートル。小さい漁村の本屋さんぐらいである、半分以上が科学技術関係のやさしい実用本で、残りの棚は社会科学を中心に四つぐらいしかなかった。ドイツ古典哲学、レーニン伝などが目についたので買ってみたけれど、いずれも百五十ぺージぐらいの小冊子で政治的バンフレツトの域をあまりでていないように思う。題名をみても、教科書のようなものぱかりで、もっと掘り下げたものは、見えなかった。文芸閑係は、中国のものがほんの少しあるだけで翻訳ものはほとんどなかった。
  私は、次の講義の時、本があまりにも少ないことにショックを受けたという話をした。そして日本では、敗戦後多分一番早く復興したのは出版であるという話をした。われわれは一食に芋一切しか食べられなかった時でも、空腹を忘れるためにも本を読んだという話をした。文学書、哲学書を片っぱしから読んだという話をした。ロシヤ文学では、トルストイ、ドストエフスキイ、チェホフなど、フランス文豪ではユーゴー、パルザックなどを読んだというと、驚いたことに聴衆の何人もがトルストイ、ドストエフスキイ、ユーゴー、バルザックと、私のあとにくり返すのである。これらの本は今まったく手に入らない。多分二十年も前に読んだのであろう。なつかしさのあまり、口をついてでたのだと思う。その後、北京図書館に行ってしらべたら、これらの本は、閲覧カードがなかった。すべて廃棄されたのだろう。

古本屋での発見
 翌日は東風市場にある古本屋に行って見て新しい発見をした。ここにある自然科学関係の本の中には新刊本と違い程度の高いものが多かった。『原子核物理学』というのを見てみたが一九六一年の出版でリー・ヤンの理論や湯川の核力理論も含まれていて大変程度の高いものだった。 ほかに『深海海洋微生物学』という本も買ってみた。ロシヤ語からの翻訳であるがアート紙の色刷グラピアページが三十ぺージも入った五百ぺージの堂々たる学術書であろ。出版が一九六四年なのを見ると、すでにソ連と断交し、ロシヤ語の読めない世代がでて来たので、翻訳の必要があったのだろう。日本では、専門的すぎてとても出せない本である。中国がこのままのびていたら、確実に世界のトツブレベルにいったと思われる。
 北京の街で、この二冊の本に出会った時の感じは驚愕というのに近いものだった。現在の北京の文化水準から見ると、このような本が過去に出版されたということが信じられなかったのである。化石を拾った感じだった。多分、中国の現在の若い人でこれらの本を読める人は、まったくいないと思う。この二冊の本と最近やっと出版され出した本の落差はあまりにも明白だった。革命後十年で非常に高いレペルに達しながら、一挙に崩壊した文化の廃墟を見た気がした。
 この本屋で本の出版年代を片はしから調ぺてみると面白いことに気づいた。一九五七年に一つのビークがあり、しばらく出版がとだえて、六〇年に再開して、六一年にもう一つビークがあり、六四年以降の本は見当らなかったことである。人文関係では一九五七年に良い本が出ているようだった。万里の長城に案内してくれるガイドが大事に持っている案内書も五七年の出版だった。後で調べてみると、一九五八年が大躍進、六六年が文化大革命のはじまった年である。
 その後、ある席で、私は中国の印象をたずねられたので、書物に関する私の経験と印象を話し、文化に関していえば、革命後十年で非常に高いレベルに達しながら、一挙に崩壊した廃墟を見る気がすると述べ、なぜそのような事がおこったのか、意見を聞いてみた。「近年、四人組による妨害がありました」という型通りの答えが返って来た。しかし出版のピークについての四人組出現以前の問題を指摘すると、「では、くわしくお話しなければなりませんが」と言って次のように述べた。「左の影響はすでに一九五七年からありました。そして知識人に対する間違った政策が取られました。文化大革命はそれがより一層はっきりしたということです」 これを答えた人は、私とは個人的にはほとんど話をしなかった人で、多分公式的な立場から答えてくれたのだと思う。現在の中国の指導層のなかば公式的認識と言っても良いのではないかと思う。つまり現在の中国指導層は、大躍進も文化大革命も毛沢東の仕業と見ているのである。
 「左」というのは、極端な精神主義と平等主義を主張し、知識人の文化を否定するグルーブのことらしい。農民革命派というべきであろうか。このグルーブはいまだ根強いように見える。うしろに十億の農民がいるからである。中国共産党は、この農民革命派と都市知識人の合作であった。毛沢東は「左」から出ながらこの合作を指導して成功した。しかし、後年、毛沢束はふたたび「左」に帰ったように思う。

知識人の下放体験
 文化大革命の最中のことについては、みんな気軽に話してくれたが、聞いて驚くことが多かった。北京を離れる前日、工科大学の幹部が招待してくれた宴席で文革中どんな経験をしたのか質問してみた。みんな大笑してから答えてくれた。教授で共産党員でもある学長は、?小平に似た感じの磊落な人である。彼は例のジェット機の格好をさせられたあと、二年間農村に送られたと言った。化学工学の主任である共産党の賛任者は、「おれは四年だよ」と言って笑っていた。これは私が聞いた最長記録である。彼のような立場の人が、もっともきびしくやられたのだろう。彼は解放前、南京の大学に入ったけれど、秘密党員だったので勉強はせず、もっぱら革命の方ばかりやっていたそうだ。そういう人が解放後、大学の管理部門に入っているのである。人の気持がよくわかる実に良い人だった。「少しぐらいは本も読めたでしょう」と聞いたら「とんでもない。こればっかりだ」といって、「くわ」で畠をたがやす仕草をした。活字が読めなかったのは、農村ぱかりではないらしい。工科大学でも、外国語の文献が読めるようになったのは、二年前、その一年前までは、科学技術関係の文献さえも読むことはできなかった、という。許されていたのは政治的文献だけで、毎日、毛沢東思想の学習をしていたという。
 しかし文化大革命の最大の被害者は彼らではない。三十歳以下の世代である。私は偶然外国語大学の日本語学科を出たという二十七、八歳の青年と知り合ったが、彼の日本語はかなりたどたどしい。「六時でいらっしゃいます」というようなことをいう。よく聞いてみると、「私は六時に来ます」といいたいらしい。「間違えるといけないから、主語を略さない方がよい」と言ったが、主語という言葉がわからない。「どうぞお食べして下さい」というから、「して下さいは、名詞にだけつくのだ」と教えても、名詞と動詞の区別がわからない。大学時代、一体、何を勉強していたのか聞いてみた。「大学の時には、大字報ばかり書いてました」という答えであった。毎日毎日、喧嘩のような状態だったらしい。「鉄砲で撃合いをしたこともあるのですか」と聞いたところ、自分達の大学では、それはまったくなかったけれど、清華大学と北京大学には銃を持ったグルーブがいたという話だった。
 吊るし上げのようなことには、大学生はあまり加わらなかったそうである。「中学生(日本の高校生)がやりました。なにもよくわかりませんから」という話だった。つまりその組織にまったく関係ない中学生がやってきて、批判集会を開いて幹部の吊し上げをやったらしい。ただしそのうしろでこれを指図していた人がいることは碓かだろう。やられたところとやられないところがあり、コンピナートなど、主要工場はこれからまぬがれているからである。

毛沢東に対する評価
 中国での最初の日曜日、明の皇帝の地下墳墓に案内ざれた。大理石の二重の扉で守られた一種のビラミッドである。ヨーロッパの教会建築と較べれば、豪華けんらんとはいえないが、一人の人間の墓のためにこれだけの大規模な贅をつくした工事が行なわれたのは、近代ではほかに例がないだろう。完全な神様扱いである。私は、人間を神にする旧中国の伝統をじかに見た思いがした。と同時に、人間を生きたまま神にした、日本の過去を生々しく思い出した。
 翌日の講義では、明の地下墳墓を訪ねた話をしたあと、私が一番強く感じたこととして、人間を神に仕立てた日本の誤りについてのべた。そして日本の近代化は天皇の人間宣言以後やっとはじまったこと、人間が神である間は、科学的精神や研究は阻まれざるをえなかったことを、例をもって話した。そのあとみんなに向って、Do you love Mao Zedong, respect Mao Zedong or Worship Mao Zedong? と聞いてみた。すると聡衆の一人がいきなり立ち上がって、"We love Mao Zedong from the bottom of our heart"と答えた。 私はそれらすべてだというような答を期待していたので、We love Mao Zedong という答えは、中国人と毛沢東との関係を物語る断乎としたひびきをもって印象に残った。しかし、何か大向うを意識した模範解答のような感じもさけることはできなかった。
 毛沢東に対する気持を実感したのは、街の一膳飯屋で飯を食った時である。われわれ招待客は朝昼晩と北京飯店で食事をすることになっていて、人民公社の食堂にいきなり飛びこんで飯を食べてみるというようなことは許してもらえない。私はなんとしても普通の人が食べているものを食べてみたかった。そこで、道端に見えた食堂を指して、どうしてもここで飯を食べたいと頼んでみて、成功したのである。附近の工場労働者が来る食堂だった。せまいたてこんだ食堂だが、みんな「どんぶり」にビ一ルをついで、ゆっくり食事していた。大低は肉のいため物一皿と主食をとっていた。いろいろ食ベてみたけれど、どれも味は満足すベきものだった。値段は、肉の「いため」が75円、米の飯が45円、小麦粉で作った主食が8円から12円だった。つまり100円だすと一応の食事が可能だった。驚いたのは炊事場の清潔なことで, 日本の中華料理屋を見られたら恥かしいと思った。
 みんな服装は貧しかったけれど、落着いた顔で食事をしていた。みんなの間で食事をしていると、中国では食の問題が一応満足すべきレベルで解決しているのだという感じを深くした。解放前の中国を知っているものにとっては、これは瞠目すべき事実なのである。私は一般の人が毛沢東に感謝する気持が良くわかる気がした。日本流にいえば、「毛沢東さまさま」という気持であろう。「すぺての功績は毛沢東にある」とは考えない人でも、毛沢東がいなければ新中国はなかったろうという点については、ゆるぎない確信をもっていた。この意昧で毛沢東を愛すると言っても、その内容は単に敬愛するということをはるかに超えたものに見えた。現在の中国の民衆のレベルから見ると、敬愛する指導者の一生を前半と後半に分けてその評価を変えるという芸当はむずかしい。いきおい全面的肯定か否定しかない。否定がありえない以上タブーにつづくと見るべきである。民衆で思い出すのは、十数年前レニングラードで乗ったククシーの運転手である。彼は、フルシチョフがスターリンを批判したことを、かんかんに怒っていた。彼は、二年間のレニングラード防衛戦を耐え抜いた話をした。食物がまったくなくなった時のことを。「しかしそれでもわしらが戦ったのは、スターリンがいたからだ」と言った。こういう場合、民衆と指導者は一体化しているのである。

江青に対する憎悪
 毛沢東に対する敬愛の気持は、良ぐわかる気がした。しかし同時に知ったのは毛沢東夫人江青に対する憎悪の深さである。理解できなかったのはどうしてこの二つが関係なく人々の心に共存しうるのかという点だった。江青に対する悪口はどこでも聞かされた。何でも悪いことは江青のせいである。そこで私は講義の際、「中国人の意気地なさ」をなじって、「江青が倒されてから江青、江青ということは誰でもできる。肝心なのはその前だ。君達は作家の老舎が好きだろう。しかし老舎は池に飛び込んで死んだという。そうなる前に君達の中で一人でも彼を弁護した人がいるのか。死んでからの名誉回復などなんになるのか」と問いかけた。しんとして声がなかった。しかしこのことは、余程こたえたらしい。くやしかったらしい。 翌日、「そのことを昨晩、家内と話し合ったけれど」と言って話しかけて来た人がいた。「お前は江青のことが解っていない」そう言うと彼は、タオルをしぽるような手つきをして、「江青は本当に憎い。こうやってひねりつぶして、煮えたぎった油の中にジュッとつっ込みたい」と家内が言ってたと伝えるためだった。
 江青に対するこれほどの憎悪というのは、裏を返せば、ブロレタリア文化大革命の時代に対する憎悪であり、その指導者、やり口、もたらされた結果に対する憎悪である。これは、現在の中国における文化大革命のほぼ全面的な否定的評価にもつながっている。わからないのは、この文化大革命を指導した毛沢東に対する評価である。文化大革命への憎悪と毛沢東への敬愛の情とが、共存しうることは、何か偽善的に見えた。常識的なのは、新中国を可能にした毛沢東を評価し、後年の誤りを認めることであろう。中国の知識人層がそう考えていることは間違いない。しかしそれを言うことは、タブーになっている。そして多分このタプーは、当分消えないと思う。それは思想の間題を超えた政治の問題だからである。それが政治間題化するのは、十億の民衆の感情に直接ふれる問題だからである。

最後の授業は毛沢東批判
 最後の授業では、それまで遠慮していたことであるけれど、毛沢東思想に対する私の意見をのべた。私はまず、毛沢東の著作はあらかた読んでいること、その中では、初期の薯作からは学ぶことが多いと述べたあと、「しかし晩年、彼は間違ったと思う」と述べた。文化大革命の間違いについては、それまでに随分と話して来た。問題は、彼にもその責任があるかどうかという点であって、私は、貴任があるという意味で、「毛沢東は間違っていたと思う」と述べたのである。聴衆は身じろぎ一つせずに私の言葉を聞いた。ほんのちょっとでさえうなずく人はいなかった。聴衆の間に一人置きに座っている共産党役員に、心の中を見せないためである。しかし何人もの目が、ぱっと輝やくのを見た。聴衆の一人一人とスビーカーである私の間に、誰にも気づかれない交信が成功したのである。その輝やきは、今まで疑問に感じていながら、決して口に出してはならないことを、はじめてはっきり聞いた人のカタルシスにみちていた。多分これ以上の言葉も行動も不要だったのである。この十五年間、自分達がなぜ苦労しなければならなかったか、その意味が少しでもわかればよかったに違いない。

4つの近代化 毛沢東のはダメ
 つづいて私は、毛沢東が指示した四つの近代化について、感想をのぺた。四つの近代化とは、「工業の近代化」「農業の近代化」「軍備の近代化」「科学技術の近代化」だが、私なら四つの近代化として次の四つを重要と考えると言って、黒板に書き出した。まず、漢字で、「生産的近代化」(生産の近代化)と大きく書いた。私はずっと英語で講義をし、それまで黒板に漢字を書かなかったので、漢字も書けるじゃないかというような笑いがおこった。
 第二として、「生活的近代化」(生活の近代化)と書いた。この時、どっとどよめきがあがった。その意味はよくわからない。多分、意表をつかれた感じと、共感とが入り混ったものだったと思う。多分スローガンに個人の生活の向上を取り上げることは考えられないことだったのだろう。しかしその必要は痛いほど感じているようだった。
 第三として「社会制度的近代化」と書いて、法制度の確立、言論の自由の確立が必要だとのべた。この点は、あまり抵抗なく受け入れられたようだ。プロレタリアート文化大革命の最中に、法制がまったく無視されたこと、言論の自由がまったくなかったこと、それがどんなにひどい結果をもたらしたかを誰もが認めていたからである。現在は何でもしゃぺれるという話であったがまだまだ人々の口は固かった。政治や毛沢東など微妙な問題になると、公認路線以外の意見はまったく聞けなかった。こちらが勝手に意見を言って反応を確かめようとしても、他人が同席していれぱ相槌をうつこともなかった。まして個人の批判的意見などは期待できなかった、これは、中国人の国民性によるものなのか、あるいは、文化大革命の最中、過去のちょっとした言動をとらえてひどい吊し上げを食った記憶が生々しすぎるせいなのかはわからなかった。
 第四として「思想的近代化」と書いて近代化を進めるのには、日本の例から見ても、思想の近代化が一番重要なのだと述べた。しかしこれだけの説明では足りないような気がしたので、近代化というのは、緒局人間が近代化することなんだと言って、人間的近代化と大きく書いて二重丸をつけた。それで十分だった。「神やイデオロギーから人間が自由になり、人間が個人として確立することが近代である」、という説明をすでに何回も強調してあったからだ。私は、中国が共産主義国家であることを片時も忘れた訳ではない。しかしその中で四つの近代化が強調されているのを聞くと、近代とは何なのか、その本当の意味を考えてもらう必要を猛然と痛感し、あえてこんな話をしたのである。

毛沢東語録ではダメ
 この時の黒板を記録のために写真にとっておいたが、これを見ると「系統工学八股に反対する」「問題をつかんで解決を促がせ」と中国文で書いてある(反系統工学八股、孤問題促解決)いずれも毛沢東の言葉を「もじった」もので、私がシステム工学の講幾を通じて伝えたかった思想のエッセンスである。「系統工学八股に反対する」というのは、「党八股に反対する」という毛沢東の初期の論文と同趣旨のもので、むずかしい数式を並ぺて人を驚かすばかりで、一つも実際の問題が解けないシステム工学者に対する批判である。「問題をつかんで解決を促がせ」は「革命をつかみ、生産を促せ」という後期の毛沢東のやり方に真正面から反対し、正しいやり方を示したものである。この毛沢東の言葉は、生産の向上に役立たないぱかりか、逆に生産を阻害したことを多くの人は感じているようだった。そのせいか、「西村肇 語録」と書いて「抓問題促解決」と書いた時は、教室は爆笑の渦につつまれた。
 このようにして、私は二週間におよぶ講義を、無事に終えたのである。やっている最中は夢中であったが、あとになって考えると、よく無事だったと思う。もちろん、聴衆の中には共産党員の責任者がいて、私の話に注文をつけるぐらいはでぎたであろうが、実際は喜んで聞いているばかりで、なんの注文もつけてこなかった。私の講義が終ると、共産党員の責任者が立って挨拶をのぺた。彼は大学の教員ではないが、化学工学科の管理運営の面での責任者をしている。彼は、私の講義に対して、賛辞や感謝の言葉をのべたあと、今回の講義からは、教授法についても大いに学ぶところがあったと述べた。こういうことは、中国ではやっていなかったけれど大いに学ぶぺきだという趣旨の挨拶であった。私はほっとした。
 聴衆の拍手も熱烈だった。講義のあと専門家との討論があったため、工科大学を辞去したのは、さらに四時間もあとだったが、多くの聴衆が別れを告げるために待っていてくれた。一人一人と握手をしていよいよ車の方に歩き出すと、一人の女性が走り寄って来て「素晴らしい講義だった。是非もう.一度来て欲しい」と^言った。流暢なロシヤ語だった。中国人がこのように個人の感情を率直にあらわすことは滅多にない。私はすべてが酬われた気になった。空港には十人の聴衆が見送りに来てくれた。四人からは帰国後すぐにかなり長い感謝の手紙がとどいた。二通は英諮で二通はロシヤ語で。
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