Jim Nishimura Web site
頭の中の知識の地図 Thinkmap
将来予測
20年前に行った 中国の将来発展予測
Episode 大躍進とlushan会議
 暗黒時代はMaoが指令した「大躍進」で始まりました。そしてこの「大躍進」は1958年から61年まで続きました。この期間は、人工衛星に成功してMissileに自信をつけたソ連が、危険な戦略に出てCuba危機を招来した時代で、国際情勢は極度に緊張していました。一方国内では、1960年の安保改定をめぐっての左右の対立と、三池炭鉱争議をめぐっての労資の対立が、重なって先鋭化し、ただならぬ雰囲気でした。したがって人々は、中国の「大躍進」については、まさに対岸の火、「中国らしい話だな」と思った程度で、それ以上の関心は盛り上がりませんでした。その後の文化大革命の時とは、まるで違います。文化革命の時と違い、人の交流がまったくありませんでしたし、情報も、「人民日報」に出るMao主席の指示と、それを讃える成果宣伝しか なかったからです。

 その中でも私は、事態の真相をつかむ努力をしました。かねがねMao Zedongの「いいかげん思考」と「政治主義」に警戒心を持っていたからです。そのことは10年後、文化大革命の際に、すぐ事態の真相を見抜き、即座に徹底した批判を始められた理由と思います。私が少ない情報の中で知りながらも、大躍進の非合理性に気付いたのは次の4点です。

 第1は農産物の増収です。Maoが「農産物の生産を2倍にせよ」と指示すると、早速「米の反当り収量」を2倍にした人民公社の実例が、人民日報に出ました。驚いていると、次に3倍が出、翌年は10倍という例が、Mao思想の成果として出ました。これについては、私のまわりの専門家の見方は、冷ややかで一致していました。公開収穫の一週間ほど前に、よその田で生育した稲株を持ってきて、密植したのだろうとのことでした。中国人一流の「ごまかし」です。でも悪質なのは、ごまかしとわかっているのに、大宣伝をする人民日報など共産党本部と、それに乗せられて、「ごまかし競争」に精を出す人民公社幹部です。収穫量を高く報告すれば、自分は出世して中央に行けるでしょうが、人民公社の方は、供出量は確実に引き上げられ、自分達の食料まで供出させられ、、餓死者を出すようになりました。

 第2は、中国いたる所の農村で、燃えるものすべてを燃やしつくして行われた原始製鉄です。これは、「鉄鋼生産量を、3年で英国なみに、10年で米国なみに」引き上げるというMaoの夢想指令に発しています。でもこれはMaoが、多分、鉄には鋼鉄と鋳鉄の区別があること、建設に必要なのは鋼鉄なのに、原始製鉄では、鋳鉄しか出来ず、鋳鉄は工業には役立たないことを、知らなかったから出した指令です。燃料と労力の例の無い壮大な無駄使いでした。この愚かしさは、少しでも技術を知る者には、誰にでも分かるはずなのに、中国全土で燃やすものがなくなるまで続けられました。一旦動きだした巨大な愚かしさは、作った本人以外には、止めようがないのです。

 第3は、農村では農民が、自分の土地と住宅を否定され、約1万人単位の人民公社に集結させられたことです。各自の家での炊事、食事が禁じられ、食堂での給食になりました。これは、Maoが、「中国は、すでに共産主義の段階」と宣言したからです。共産主義とは、「食べたいだけ食べる社会」と解釈した人民公社は、1年分の食料を半年で食べつくしてしまい、種もみまで食べてしまい、餓死者多数と聞きました。

 このように大躍進は、まったく非合理な夢想計画のために、多数の餓死者(3千万?4千万人)を出した恐ろしく愚かで、非人道的な行為ですが、問題は、「なぜMaoはそれをしたのか」と、「誰もその間違いに気付いたはずなのに、なぜそれを止めなかったか」です。Maoの動機は、はっきりしています。ソ連と同様の「雪どけ」と「個人崇拝批判」が中国で起こることが、死ぬほどこわかったのでしょう。自分がStalinと同一視され、天安門の上から引きずり下ろされ、批判の集中砲火をあびるのは、彼にとっては、想像できないこわさだったのでしょう。大躍進は、それを防ぐための決死の反撃だったと見ます。Maoには、過去に、絶対絶命の窮地を脱するために、「大ばくち」を打って来た歴史があります。湖南から延安への一万キロの長征も, 西安での蒋介石ら致も、その「大ばくち」が成功した例です。

 ところが今度の「ばくち」は、誰の目にも大失敗でした。中国の農村の大半が、深刻な飢餓に直面し、多数の餓死者を出していました。当然、共産党中央はこれを認識し、対策を考えていたはずです。当時流れて来た話では、国家主席のLiu Shao-Chi(りゅうんきゅう しょうき)、首相のChou En-lai(しゅう おんらい)、人民軍総司令官のPeng Dehuaiの3人が相談して、Maoに主席の地位から降りてもらうために、Lushan(ろざん)で共産党中央委員会総会を開いたそうです。そこで勇敢なPeng Dehuaiが、Maoの前で、大躍進の失敗とMaoの責任について、明確に述べたそうです。これで会議が動くと思われた時、それまで黙って聞いていたMaoが、「一言いわせて欲しい」と立ち上がったそうです。そして「大躍進の失敗は、批判者の言うとおりだ。そしてその一番の責任は自分にある。これは認める。しかしそれは、みんなで決めたことではないか。しかもそれは、原則において間違いであったろうか。それを、結果の失敗だけで論評してどんな意味があるのだろうか。特に私を責めても何になるだろうか。私はすでに、二人の息子を朝鮮戦争でなくし、十分な罰を受けているはずだ」と言って、泣き崩れたそうです。それで会議の雰囲気はまったく逆転し、Pengを反逆分子として逮捕処罰することが決議されました。LiuもChouもPengを裏切って、これに賛成したという話でした。

 これは当時、もれ伝わって来た話です。真偽は確かめようはありませんでしたが、確かなことはPeng Dehuaiが消えたことです。人民軍総司令官は、この時に真っ先にPengを非難追及した貧相なLin Biao(りんぴょう)に変わりました。Lu Shan会議の正確な詳細は1988年に出版されたLuo Shi-xuのAltar of Utopiaで明らかになりました。それによって上の話は大筋において真実であることが分かりました。ただ一点大きく違っていたのは、この会議を計画したのは、Liu Shao-Chi ではなく、Maoだという点です。Maoは自分に批判的な気持ちを抱いているPengを、おとしいれるため、幹部を高級保養地Lushanに呼び集め、自由な雰囲気のもとで、Pengが批判的な意見を言うように仕向けたのです。Maoの奸智(悪知恵)は追随者の知恵をはるかに上回っていました。こういう人物に最高権力を取られたら、後はあきらめて、死ぬのを待つしかないのでしょう。
ホームページに戻る
hajime@jimnishimura.jp